2013年12月3日火曜日

若いエンジニアへ

エンジニアなら誰でも突貫工事に喜びを見出した経験がある。深夜2時の夜食を共にした同僚のことは、その職業人生を通じて忘れることはない。しかし、そこにいかなるドラマがあろうとも、突貫工事は例外である。これを常態としてはならない。

メーカーの組込みプログラマとしてエンジニアのキャリアをスタートした私は、「よい製品はよいプロセスから生まれる」ことを頭に叩きこまれた。素晴らしい製品を生み出す工場は静かである。常に誰かが大声で叫んでいるような工場には明らかにプロセス上の問題が認められ、素晴らしい製品を生むことは決してない。

本物のエンジニアは突貫工事を好まない。突貫工事とはプロセス上の誤りであり、つまり誰かが大声で叫ばなければならないということだからである。エンジニアの仕事は計画され、コントロールされたものでなければならない。

長時間労働によって成果を生み出そうとすることも、やはり例外としなければならない。長時間労働もプロセス上の誤りである。長時間労働とは「体力勝負」の世界であり、技術の専門家たるエンジニアの地位を貶めるものである。

エンジニアの創造性を引き出すものは、長時間労働ではなく集中である。誰もが知っているように、集中とは1日18時間持続するものではない。普通の人は2, 3時間がせいぜいである。

どうすればこのわずか2, 3時間の集中に入れるのかを知る者こそ本物のエンジニアである。ある人にとっては深夜や早朝かもしれない。朝メールをチェックして、お気に入りのWebサイトを見て回ったあとでないと集中できないという人もいる。

かつて、NHKで「プロジェクトX」という人気番組があった。そこで紹介されるプロジェクトは、ほとんどすべてが突貫工事と長時間労働のドラマだった。視聴者に、あたかも、突貫工事と長時間労働こそが素晴らしい製品を生み出すかの誤解を与えるものであった。

あの番組を見て違和感を覚えたエンジニアは多いはずだ。私が駆け出しのエンジニアの頃上司から受けたアドバイスは、あのような番組を真に受けるなということだった。メーカーを退職した今でも、私は「よい製品はよいプロセスから生まれる」というこのコンセプトが正しいと思っている。

若いエンジニアには、よいプロセスは退屈に見えるかもしれない。しかし、本物のエンジニアにとっては、日々の秩序の中にこそ素晴らしいドラマがあるのである。

2013年9月13日金曜日

エンジニアのジレンマ

技術は何を作ればいいかは教えてくれない。技術は如何に作ればよいかを教えるのみである。世界で最も優れたエンジニアとは、何を作ればいいか教えてくれれば何でも作ってみせると約束する者である。

優れた技術を持つはずのエンジニアが、精巧なゴミを作り続ける理由はここにある。今日のゴミはWebインタフェースを持ち、明日はAndroidアプリとなる。だが、どんなにキラキラかがやいていようと、どんなにフワフワしたおまけが付いていようと、ゴミはゴミである。

皮肉なことに、優秀なエンジニアは、自分の作っているものがゴミだと知っている。単に、ゴミ以外に何を作ればいいか知らないのだ。エンジニアのジレンマである。

技術とは如何に作るかについての知識である。知識とは形式化され体系化され教育によって学ぶことができるものである。技術と教育システムの発達した現代においては、教育によって優秀なエンジニアを育てることができるようになった。

現代に欠けているのは、何を作るかについての知識である。その知識を学んでさえいれば、系統的プロセスによって何を作ればいいか発見できるというようなものが必要とされている。そのような知識を手にすれば、エンジニアのジレンマを解決できるはずである。

MOT(Management of Technology)と呼ばれているものがそうかもしれない。少なくともそういうものを目指しているのだろう。しかし、現時点では、自信を持ってそうであると言うことはできない。MOTにはまだ実績が乏しい。

知識に頼ることができないということは、現場のエンジニアが自分で考えるしかないといいうことである。経験から学ぶしかないということである。

古代ギリシアのアルキメデスは、まさに典型的エンジニアだった。彼は、支点さえ与えられれば地球をも持ち上げてみせると約束した。だが、結局アルキメデスが地球を持ち上げることはなかった。アルキメデスはどこに支点を置けばいいか知らなかった。

技術とはてこの原理であり、何を作るかということはてこの支点である。支点なくしては、意味ある作用を及ぼすことはできない。現代のアルキメデスは、てこの原理よりはるかに進んだ技術を持ちつつも、支点を知らないがために本当に意味あるものを生み出せないでいる。

優秀なエンジニアは如何に作ればいいか知っている。しかし、エンジニアの評価は、知識の量によって計られるものではない。どれだけ価値あるものを生み出したかによって計られる。エンジニアとは社会を豊かにする存在であるはずだ。

エンジニアは技術を学ぶことに満足してはいけない。技術を学ぶと同時に、どこに支点を置けばいいか考えなければならない。おそらく、アルキメデスはどこに支点を置けば地球を持ち上げることができるか考えたのではないか。実験もしたかもしれない。良い結果は残せなかった。しかし、アルキメデスを笑うことはできない。

2013年5月25日土曜日

Microsoftに捧ぐ

理論的にはソフトウェアが壊れるということはない。長く使っているうちにビットがすり減ってしまうということはあり得ない。何かがうまく動かないのは、はじめから壊れていたのだ。それにも関わらず、世界中のプログラマが、ソフトウェアが壊れていくさまを目撃する。昨日までうまく動いていたものが、今日はコアを吐く。

バグを見つけたら修正しなければならない。しかし、そのバグフィックス自体が、新たなバグを持ち込む可能性がある。したがって、ソフトウェアにはメンテナンスが必要である。このメンテナンスには終わりはない。ソフトウェアは「リリースしたら終わり」の製品ではない。

ソフトウェアベンダーは植木屋と同じである。植木屋は、植木を「リリースしたら終わり」ではない。何十年、ときには何百年も成長し続けるという植物の性質上、植木にも終わりのないメンテナンスが必要である。この点では、日本の植木職人もヨーロッパの庭師も同じである。

Microsoftこそ真の植木職人である。あるいは庭師である。来年には、Windows XPのサポートが終わる。Microsoftは、2001年発売のWindows XPを実に13年間メンテナンスし続けたことになる。変化の早いソフトウェアの世界での13年は、植物の世界では300年にも400年にも相当する。

私のLinuxエンジニアとしての仕事も、まさしく植木職人のそれである。Linuxカーネルは、日々成長する巨大な論理の植物である。日々の成長は小さくとも、月日の流れの中でダイナミックに成長する。私は植木職人として、あちこちにパッチを当て、Linuxカーネルの剪定を行う。

先日、カーネル2.6.9についての問い合わせを受けた。ファイルシステムのバグを踏んだかどうか調べて欲しいというものだった。さっそくカーネル2.6.9で現象が再現するかどうか調べようとした。驚いたことに、最新のgccでは、もはやカーネル2.6.9をビルドすることができなくなっていた。カーネル2.6.9のリリースは2004年である。

MicrosoftはWindowsのすべてをコントロールできる立場にあるので、長期間のメンテナンスを行いやすいのかもしれない。そうだとしても13年は尊敬に値する。

業界のもう一人の巨人であるAppleはどうか? OS Xのサポートを数年で打ち切ってしまうのは、花屋が切り花を売るのと同じである。切り花は、買ってから1週間はその美しさを楽しむことができる。しかしその後は、次の花に取って代わられる。Appleの花は常に美しいが、それは去年の花ではない。

90年代はMicrosoftの天下だった。しかし、ここ最近はMicrosoftを侮る声が多く聞こえる。Microsoftの製品は、Windows XPの背景のように何の変哲もない芝生に見えるかもしれない。しかし、何の変哲もない芝生はよく手入れされた芝生である。芝生には2種類しかない。よく手入れされた何の変哲もない芝生か、手入れのされていない茶色い枯れた芝生かである。

2013年2月17日日曜日

『Operating System Design: The Xinu Approach, Linksys Version』を読んだ

実際のOSのソースコードを示して解説する教科書といえば、TanenbaumのMINIXが有名である。本書は、Dougras ComerによるXINUというOSにつての同様の趣旨の本である。このような本があるという事は、以前から知ってはいた:
XINU("XINU is Not UNIX"の略)オペレーティングシステムの開発について述べた優れた本。<中略>この本はオペレーティングシステム概論の授業の副読本としてうってつけで、UNIXカーネルの授業でLionsのテキストと一緒に使っても良いくらいだ。(『Life with UNIX』p.127) 
この記述は本書の初版本に関するもので、LSI 11というPDP-11をワンチップ化したハードウェアを対象に書かれたものである。Amazonで調べてみると、本書はその後、PC版やMac版が出ていたようである。しかし、長いこと絶版となっていた。

ところが最近、Linksys(今はCISCO?)のEL 2100LというというMIPSアーキテクチャのルータ向けに書き直された版が出ていることを知った。このルータを選んだ理由として、安価で入手しやすいことと、シリアルを備えていることが本書で述べられている。日本だと、「ブロードバンドルータ」と言って家電量販店で2万円くらいで売られている類のものではないかと思う。

XINUは組込みOSとされている。今や組込み機器でもLinuxやBSDが動く時代なのでその定義は曖昧であるが、例えばMINIXと比較すると、以下の特徴がある:

  • ユーザモードとカーネルモードを区別しない
  • システムコールは普通の関数呼び出し(ただし割り込みは禁止)
  • アプリケーションはカーネルと一緒にリンクされる

MINIX本では後ろ半分に付録としてソースコードを載せていたが、本書は関数1つ毎に解説とソースコードが交互に記載されている。したがって、MINIX本のように本文とソースコードを行ったり来たりする必要はない。シーケンシャルに読める。また、小さいながらもUDP/IPプロトコルスタックも実装されている。

本書を読んだ感想だが、OSというのは、本当にまったく単なる巨大なCプログラムに過ぎない。これは、MINIX本を読んだときにも感じたことである。XINUの実装を読むことで、更にその思いを強くした。

かつては、OSには何か魔法のようなものがあると思っていた。並行プロセスやファイルシステムなど、まさに現代の魔法だった。しかし、その実装を見てみれば、何の魔法もないのだ。アーキテクチャに関わるところも、割り込み処理とブートストラップの一部だけである。そして、OSの実装言語としてのCのスジの良さ。実行環境としてスタックさえ準備してやれば、後はおなじみのCの世界である。

『Life with UNIX』にもある通り、本書はOSの授業の副読本として最適だと思う。例えば、アーキテクチャはパタヘネでMIPSを学べば、本書のアーキテクチャ依存部分もよくわかるだろう。

大人になってから、「学生時代にこの本を読んでいたら、違った未来になっていたかも」と思わせる本に出会うことがある。本書もそのひとつだ。OSに魔法などない。



2013年2月10日日曜日

忍び寄る全体主義

私が三菱電機を辞めた理由のひとつは、組織のもつ全体主義的傾向を嫌ってのことだった。全体主義とは、皆が同じ考えをもつことではない。そんなことは不可能だ。全体主義とは、皆が同じ考えをもつことを強制することである。従って、全体主義のもとでは、人は皆と同じ考えを持っているふりをするようになる。

ひとつ象徴的な例がある。私のいた事業所では、改善活動が行われていた。いわゆる「カイゼン」活動である。製造業なら、どこでもやっていると思う。職員全員について、改善のノルマが課せられていた。技術者も、事務職員も、現場の職人も例外は認められない。通常は1月に1件以上だった。

どういうわけか、改善の効果は、節約時間によって計られることになっていた。そして、年度ごとにトータルの節約時間が定められ、各セクションにその時間が割り当てられた。この時間は最低の基準とされた。

誰の目から見ても、この改善活動は馬鹿げていた。一人毎月数十時間を節約する方法を考えだすことは、不可能とは言わないまでも、通常業務の中でできることではなかった。その結果どうなったか? 皆、改善したふりをするようになった。

ソフトウェアのセクションでは、単体テストの自動化などはよく使われる手だった。単体テストを自動化したふりをして、時間と品質を改善したことにするのだ。嘘の報告をしているのではない。実際にテストは自動化されている。ただし、その効果を見積もるところで「ふりをする」。

年度末に提出する報告書の上では、莫大な時間が節約されているはずだった。毎年のようにテストが自動化され、このままではテストの工数がマイナスになるのではないかと思われるほどだった。しかし、皆、本当は何も改善されていないことを知っていた。毎日残業し、デバッグする自分が一番良く知っているのだ。

ちなみに、改善の内容については、一応の審査はされているようである。一度、毎月の報告書に、「陶器のマグカップから側面が魔法瓶でできているマグカップに変更することで、長時間美味しいコーヒーが飲めるようになり、作業が捗るようになった」と書いたことがある。改善の委員に、さすがにそれはダメだと言われた。

私は、ここで改善活動そのものを批判したいわけではない。改善活動は必要だと思っている。実際、優れた改善のアイディアというものは存在する。私が批判したいのは、効果がないとわかっているのに、それに異を唱えることを許さない全体主義的な空気である。

これは、三菱だけでなく、苦境に陥っている日本企業すべてに言えることではないか? かつての成功体験にしがみつき、無意味とわかっていることを続けているのではないか?

まるで戦時中の日本軍のようだ。最初の神風特攻隊が成功を収めたという理由だけで、効果を挙げられなくなった後も飛行機による体当たりを続けた。(人道的問題はおいておくとしても)特攻隊の効果に疑問を呈することはタブーだった。日本軍が最終的にどうなったかは、よく知られるところである。結局、日本人のメンタリティとはこの程度のものかと思うと残念である。

誰も「改善はインチキだ」とは言わない。私は言えなかった。もちろん、改善に異を唱えたからといって収容所に送られるわけではない。せいぜい、「害のない」ポジションに異動になるだけだろう。

多くの大企業が大量リストラを行なっている。リストラされた人には気の毒だが、これが日本企業にとっての「終戦」になることを期待している。