2014年2月23日日曜日

社会人として

ここ数年、私が使うのを避けている言葉がある。「社会人」がそれである。この言葉は、「社会人として〜」という使われ方をする。人が(私も人である)「社会人として〜」と言っているとき、この「社会人」とはいったい何を意味するのだろうか?

「社会人」こそ無意味な思考停止キーワードである。それは、「サラリーマン」と言っているのと同じ程度の意味しか持たない。試しに、「社会人として〜」を「サラリーマンとして〜」に置換してみるがよい。その言葉があまりにも何も定義しないことに驚くだろう。

「会社に遅刻をしてはいけないよ」と、私はよく上司に言われたものだ。まだ若く世間知らずだった私は、当然の疑問として「なぜ遅刻をしてはいけないか?」と問うた。上司の答えは「社会人として」だった。若者は(私も若者だった)これでは納得しない。

この上司は、「遅刻をすると約束の相手の時間を無駄にすることになる。誰もが他人の時間を無駄にし始めたら、誰も仕事を行うことはできない。現に今、あなたはこうして私の時間を無駄にしている」とは言わなかった。

もし、この上司がこう答えていたならば、私は追求の第二弾に出ただろう。「では、誰の時間も無駄にしないのであれば遅刻をしてもよいのか?」と。

私はまだこのときの上司の年齢には及ばないが、それでも後輩を指導しなければならない立場にはなった。私も後輩から追求の第二弾を受けるかもしれない。「社会人」などという無意味な思考停止キーワードを使わないように準備しておかなければならない。

こう答えよう。「そのとおりである。本当に誰の邪魔もせず、かつ仕事ができるのであれば、会社に来る必要もなく、したがって朝起きる必要も、布団から出る必要さえない」と。ただし、「あなたにはそれが出来るのか?」と付け加えることを忘れない。

遅刻をした若者に注意を与えるとき、大抵の人はここまで考えてはいない。なんとなく、皆が同じ時間に会社に来ているからあなたも(そして私も)そうしなければならないという程度にしか考えていない。そういうとき、つい「社会人」という言葉を使ってしまう。

他にも「社会人」という言葉が出てくる場面はたくさんある。忘れ物をするな、小奇麗にしろ、飲み会で上司にお酌をしろ云々。要注意である。これらは実に些細なことであるが、しかし人が思考停止に陥る典型的パターンである。

我々は仕事を行う人間として働いている。仕事を行うことこそ使命である。我々は単なる「サラリーマン」でないのと同様に「社会人」でない。

私は、まったく会社に出社せず、メールだけで仕事をしている人物を知っている。しかし、誰かが、この人物を「社会人」でないと批判しているのを聞いたことはない。その人物は確かに仕事を行うことができ、それで十分である。

あと1ヶ月ほどで「新社会人」が我々の仲間に加わることとになる。企業とは、学校とはまったく違う性質を持つ組織である。彼らは、かつての私がそうだったように、最初は大いに戸惑うことだろう。その時、私は「社会人」などといういい加減なものではなく、本当に仕事を行う人間としてよき手本となりたい。

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